Jorja SmithのBlue Lightsを訳す

2018年、イギリスのR&BシンガーのJorja Smith が素晴らしいアルバム「Lost & Found」をリリースしました。

外国人と接することが極端に少ない環境で育った私は、彼女の写真をみて(とてもかわいい!)、彼女が黒人なのか白人なのかわかりませんでした。どちらにも見えるのです。しかし、そう思うのは的外れな感覚ではなかったようです。彼女はお父さんが黒人で、お母さんが白人だそうです。

彼女の代表曲「Blue Lights」が誕生したのは、そのような彼女のアイデンティティーが関係しているのかもしれません。

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sacoyanの歴史

sacoyanという歌手がいます。彼女の歴史を、私が知る範囲でここに記しておこうと思います。彼女が昔の音源が広まることを喜ぶのかどうか判断できないので、この記事には音源へのリンクは貼っておりません。が、気になったかたは、ここに書いてある言葉で検索すれば、見つけることができると思います。

私が彼女を知ったのは2012年でした。sacoyanの特徴は、ネット上に自分の音源をばらまいていることです。2012年以前のことは、彼女がばらまいたネットに残っている情報から推測します。

カポテ時代

sacoyanを名乗る前、カポテ(CAPOTE)と言う名前で活動していたようです。ニコニコ動画にはまだそのチャンネルが残っています。

カポテのチャンネルの中に「THE GABANだった時の私デモ音源」という動画があるので、カポテよりもさらに前に、「THE GABAN」という名前で活動していたようです。動画のサムネイル画像には日付が書いてあります。2007 4 19(4と19は画像が荒れていて、正確にはわからない)に活動していたようです。

だから、ネットでわかるsacoyanの音楽活動の始まりは、2007年ごろのようです。件の動画では、sacoyan名義でも人気曲である「カルトロックポスター」が歌われています。彼女は1989年8月生まれなので、17歳ですでに、今もマニア達の心を震わせる曲を書いていたようです。また、この頃すでに彼女の特徴である、自分の曲を弾き語りでミックスCDのように歌っていくスタイルは確立されていたようです。

ニコニコのカポテチャンネルの他の動画は、彼女が好きな洋楽ロックのカバーがほとんどですが、中に「J.K」がありました。sacoyanの大人気曲ですが、すでにカポテ時代にできていたのですね。

ちなみに、「J.K」というのは彼女の友達の「ジュンコ」さんのことで、「女子高生」を意味する俗語ではないです。これは、ファンには知っておいてほしいです。

sacoyan登場

ニコニコミュニティに「サイコちゃん伝説 SACOYAN編」というコミュニティが2010年7月20日に開設されます。だからsacoyanとしての活動は2010年頃から始まったようです。この頃からsacoyanの快進撃が続きます。彼女の活動は

  • 曲もMVも自分で作って、ニコニコ動画やYouTubeにアップする
  • 音源はフリーダウンロードで、お金を払える人は彼女の口座に自分で決めた額を振り込む
  • ニコニコ動画、ツイキャス、ユーストリームなどで自宅での弾き語りライブを放送する
  • 歌の詩はブログに載せる

というもので、これらがものすごいペースで繰り広げられていました。とにかくネット上にばらまく、というスタンスだったのだと思います。

曲作りに関して、今はどうかわかりませんが2012年頃は「リズムから作る」と発言していたと思います。

「zoom PS-04」という古いMTR機材を使っていたらしく、音はかなり荒いです。リズムから作って→宅録でトラックを重ねていく→でも弾き語りのときはシンプルにギター一本で歌う、と、状況によって曲の鳴らしかたが違うのもsacoyanの魅力ですが、私は特に彼女のギター一本での弾き語りが好きでした。

ニコニコ動画の彼女のチャンネルには、まだ弾き語り中継動画がたくさん残っていますので、是非聞いてみてください。

自宅でこんなマックスの力で歌って、近所の人とか大丈夫なのかな、とよく思っていたのですが、大丈夫ではなかったようです。また、いつかの配信で、一緒に暮らしていた彼氏との喧嘩の騒音で何度か警察を呼ばれた、ということを言っていたように記憶しております・v・

しかし、残っている音源はとにかく素晴らしいです。

私が知っている範囲では、彼女は東京で育った人だったと思うのですが(これは確証はありません。間違った情報かもしれません)、2011年末(時期わかりません。たぶん10月ごろ)、彼女は福岡へ引っ越します。

福岡引っ越し後も快進撃は続いており、時々東京にライブをしに来る、という状態がしばらく続きました。

YouTubeにそのうちの一つが残っています。「SACOYAN 2012Sep01 渋谷7th-floor」というタイトルで、ライブが丸々見れます(当時このライブはネットで中継されていたので、このように丸々見れるようです。)

sacoyanのCD
ライブで買ったフィジカル版。貴重です

sacoyan 活動大幅にペースダウン

Soundcloudに「おしえて おしえて」をアップした(2013年4月9日)あたりから、活動ペースが落ちます。新曲のアップは止まり、東京へは来なくなりました。福岡ではちらほらライブをやっていたように記憶しておりますが、定かではありません。この間sacoyanのツイッターは更新されず、いつしか音信は途絶えました。

2016年 MOOSIC LAB に参加、「まぼろし」発表

2016年8月16日、久しぶりにsacoyanのtwitterが更新され、MOOSIC LABという映像作家とミュージシャンのコラボイベントにsacoyanが参加することが発表されました。活動再開です。

北原和明という映像監督と組んで、「まぼろし」という新曲が発表されました。

「音楽を素直に楽しめなくなっていた」ので活動を止めていたようで、その間にお亡くなりになったお父様へ捧げる歌だそうで、とにかく素晴らしいです。YouTubeで聞けるので、ぜひ聞いてください。彼女は録音物には映像をつけて発表するのですが、この曲には映像はつけられなかったそうです。sacoyanが生まれたときの家族写真がサムネイルに使われています。

それからは以前ほどのペースではないのですが、2曲新曲がYouTubeにアップされました。

2017年 笹口騒音ハーモニカのイベントに出演

2017年5月6日、sacoyanが久しぶりに東京にライブにきました。4年ぶりの東京でのライブでした。うれしかったです。主催者がファンなようです。sacoyanはインターネット・ヘッズのみが知るカルト的存在、と思いますが、このようにミュージシャンの中にも彼女を尊敬している人はいるようです。

その後はぼちぼちと福岡でライブ活動をしているようです。

以上が2019年4月までのsacoyanの歴史です。また暴れてくれー

七尾旅人と志人の共通した二つのモチーフ(2)

七尾旅人と志人の共通した二つのモチーフ(1)はこちら

兵士と兵隊

七尾旅人が2016年発売したDVD作品「兵士A」には、タイトル曲「兵士Aくんの歌」という歌が収録されています。

このDVDは2015年11月19日に行われたライブを撮影したもので、公演当日に配布されたパンフレットには、兵士Aくんについて

近い将来、数十年ぶりに1人目の戦死者となる自衛官、または日本国防軍兵士

と説明されており、歌では

  • (未来に必ず現れる君は)どんな人なのだろう

という視点と、Aくんが戦死したことを知る

  • 友達、兄弟、恋人、母親

の視点で詩が書かれています。

Aくん自体の視点は登場せず、歌はシリアス・現実的であり、Aくんが未来に現れることを予言しているように聞こえます。

七尾旅人は2007年9月に発表した「9.11 FANTASIA」というアルバムでも戦争を描いています。2051年9月11日に歌の主人公が「孫」と思われる人物にアメリカの月面着陸のこと、911のこと、歌の主人公が体験した戦争のことを語り(歌い)聞かせる、という途方もない内容です。

「911 FANTASIA」と「兵士A」のどちらにも「エアプレーン」という曲が収録されています。911の飛行機と、歌の主人公が乗っている戦闘機についての歌です。ぜひ聞き比べてみてください。

一方、志人

志人が2018年に発表した「位相空間EP」というEPには「To be Boranist or ・・・」という曲があります。

この曲では、植物博士になりたかったはずの男が、ある日目覚めると兵隊になっていた、という詩がラップされています。

歌の主人公は、事故を装って総司令官を撃ち、しかし自分のしたことに苛まれて目覚めると今度はタンポポになっており、総司令官に似た子供に踏みつけられたり、捕虜に似た根切り虫にかじられたり・・・と悪夢的なというか、カフカ的な展開をみせる歌です。

兵隊になる、という重いはずのテーマですが、軽やかなピアノも相まって、どこかコミカルな印象があります。

父ちゃんとじいちゃん、兵士と兵隊

2016年~2018年、同じ時期に二人の偉大な歌手が、二つの共通するモチーフを選び、それぞれまったく違う表現をしていました。どっちも最高!

新宿ホワイトハウスをめぐる冒険(5)

カフェアリエ閉店

古い建物であり、そもそも吉村益信が自力で建てたこともあってか、排水などで不具合が起こりカフェが臨時休業になることが以前からあったのだが、2019年2月11日排水管に決定的なトラブルが起きて店舗運営が困難になり、2019年3月24日カフェアリエは閉店する。

2月11日以降は店に入れない状態だったが、最後に店のファンのために営業日が設けられた。その日は飲み物は紙コップで提供された。皿を洗うことすら困難だったのだろう。

思えば大変かわいらしいママさんであった。音楽イベントのとき、曲の合間に「みなさん暑いですか?エアコンつけましょうか?キッチンにいるとわからないの」「チキンが焼けましたよー」などと声を出されることがあり、歌っているミュージシャンよりも、そのママさんの発する声のほうが魅力的だったこともあった。田舎臭いババアということではない。かわいらしいのだ。

ファンのための営業日に店内に飾ってあった絵の写真を撮らせてもらった。一つは吉村益信の絵で、もう一つは宮田晨哉の絵だ。

一人目の住人 吉村
二人目の住人 宮田

これが、2019年4月までの新宿ホワイトハウスの歴史である。

四人目の住人は現れるのか、歴史は終わるのか、神のみぞ知る。

新宿ホワイトハウスをめぐる冒険(6)はこちら

新宿ホワイトハウスをめぐる冒険(4)はこちら

新宿ホワイトハウスをめぐる冒険(4)

新宿ホワイトハウスにどついたるねん入場

ママさんはどついたるねんのメンバーの二人を、カフェの店員として雇った。

突出した詩人であるがゆえか、どついたるねんは社会に適合するのが困難だった。いかに困難であるかの一例を、本人の証言により下記の動画で確認することができる。

だから彼らに仕事を与えたというのは、経済的な意味でママさんの功績であった。が、重要なのはそこではない。功績の最も重大な点は、どついたるねんとネオ・ダダをつなげたことだ。

どついたるねんとネオ・ダダの共通点

尿

どついたるねんは2008年に活動を開始する。2011年に1stアルバム「ダディ」を発売するが特に注目されることはなく、プロモーションのために2012年5月から、YouTubeにMVなどの動画を一日一つアップするという「毎日動画」と呼ばれる活動を始めた。当時日本ではYouTuberはまだギリギリ一般的ではなく、この活動は斬新であり、彼らは動画を作ることに力を入れるようになる。斬新だったが、特に話題にはならなかった。この時の映像作品は、「どついたるねんBEST」というCD&DVDで見ることができる。

2013年10月23日、毎日動画を撮影・編集していた協力者、岩淵弘樹のYouTubeのアカウントがYouTubeにより凍結・停止され、それまでの動画はすべて消えた。原因は毎日動画にYouTubeの規約を違反したものが複数あったことによる。

メンバーが風呂場でチャーハンをぶちまけながら浴槽内ででんぐり返しをする様子を上から撮影した動画や、メンバーの友人の陰部が映った動画などに警告があったようだが、最後の警告は、メンバーが他のメンバーに向かって風呂場で放尿する動画であった。

放尿によりYouTubeから締め出しをくらう。これは、53年前に尿が原因で日比谷画廊から締め出されたネオ・ダダと全く同じではないだろうか。

メンバーを海に落とす、噴水に落とす

毎日動画はMVやライブ映像を一日一本アップするという高い志があったようだが、ネタはすぐにつき、メンバーが駅前の噴水の前でじゃれあい、一人を噴水に落とす、といった程度の動画も多く含まれる。これなど、ネオ・ダダのビーチ・ショーと同じである。

エロ媒体からの取材

ネオ・ダダはメディアから脚光を浴びたようだが、エロ雑誌から取材を受けたことがあった。詳しくは日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴのギューチャンのインタビューを参照されたし –ネオダダの夜の座談会-。バーでネオ・ダダの面々がエロ話をした記事らしい。

どついたるねんもエロメディアに好かれ、彼らのライブのステージ上でポルノ男優・女優が絡むというAVがある(どついたるねんメンバーは通常通り音楽ライブをしただけで、女優との絡みはない)。

エロメディアに好かれ、また快く出演するというのも両者の共通点だ。

デモに参加

どついたるねんは2011年、高円寺の脱原発デモに参加し、軽トラの上で演奏をしている。その時の姿は、メンバー全員がブルース・リーの黄色いジャージ姿で、サッカーのロナウドの大五郎カットという髪形であった。その後メンバーが原発について何か発言するのを、私は聞いたことがない。これは、ネオ・ダダの安保記念イベントを彷彿とさせる。

50年の時を超えて交わる魂

当ブログ筆者はどついたるねんのファンであり、ネオ・ダダについては後から知ったのだが、ネオ・ダダの活動を知るにつけ両者に共通項が浮かび上がり、

目立ちたい

と願う若い芸術家の魂が、50年の時を超えて一つの建物で交わっている様に感動を禁じ得ない。

続く・・・

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新宿ホワイトハウスをめぐる冒険(3)

二人目の住人

吉村が売却した新宿ホワイトハウスに、二人目の住人が現れます。画家の宮田晨哉さんです。彼はネオ・ダダとは関係ないそうです(当ブログ筆者が3人目の住人に伺いました)。宮田さんは武蔵野美術大学で教授をされていたそうで、破滅的ネオ・ダダの連中とは対照的なかただったのでしょうか、その後新宿ホワイトハウスは長らく宮田さんの住居となりました(ちなみに、宮田さんのお父様は、医師で画家の宮田重雄さんだそうです)。宮田さんは2009年にお亡くなりになったそうです。

2009年、ここからはインターネットとSNSが登場します。参照資料は具体性を帯びていきます。

三人目の住人

2012年、ある女性が仕事を辞め、さて次に何をしようか、と考えていた。彼女は知り合いが「面白い家」を相続し、どうしようか悩んでいる、という話を聞く。面白がって見に行ったところ、その家が「新宿ホワイトハウス」であることを彼女は知る。

建物はだいぶ状態が悪かったようだが(なにしろ50年以上前に吉村が自力で建てたのだから)、偶然にも過去に赤瀬川原平の路上観察を取材したことがあった彼女は、その建物の価値を察知し、ここを誰もが入ることができるカフェにすることを決意した。

彼女こそが三人目の住人(住んだわけではないので住人というよりは店主である)、ここでは仮にママさんと呼ぶ。ママさんは家の状態をなるべく残すようにしながらカフェとして改築し、2013年4月12日、カフェアリエはオープンする。

外観:2018年

この辺の経緯や、ママさんについては Tokyo Loco magazine というサイトがママさんに丁寧なインタビューをしているので、ご覧いただきたいです。歴史的価値のあるインタビューです。

ママさんは以前の職場で「カワサキ・ティーンズ・プロジェクト」というイベントを開催していた。出演者とスタッフは10代の少年少女で、そこにゲストミュージシャンが加わった音楽イベントだ。ゲストミュージシャンの名前を見ればわかるように、ママさんは目利きである。

だからカフェアリエでも、ときどき音楽イベントが開催された。

宮田晨哉の絵の下で歌う土井玄臣。いい~

ママさんは

  • 新宿ホワイトハウスを誰もが中に入れるカフェとして運営した
  • そこで魅力的なイベントを行った

そして、ママさんの功績はそれだけではない。彼女はここで

  • どついたるねんのメンバーを店員として雇った

のである。
続く・・・

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新宿ホワイトハウスをめぐる冒険(2)

ネオ・ダダ結成

1959年、持病の手術のため名古屋に戻っていた原平のもとに、吉村から手紙が届く。手紙には前衛芸術の新しいグループを組織するとしたためられていた。

吉村に賛同した原平は1960年1月、荒川修作を誘ってグループに参加した。その後ギューチャンが加入。彼らは新宿ホワイトハウスに溜まり、グループの名前は「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」になった。

メンバー加入のいきさつ、ギューチャンのモヒカンにいかにマスコミが食いついたか、吉村になぜ土地が買えるほどの遺産があったのかなどについては、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴによるギューチャンのインタビューに詳しい。

また、当時のネオダダの様子はこちらのサイトで漫画にされている(制作は大分市教育委員会となっている)。

第一回ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ展

ネオダダは同年4月、銀座画廊で第一回ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ展を開催した。展覧会の内容は

  • ギューチャン – 風船300個
  • 上田純 – 豆腐の上でもやしを栽培
  • 吉村益信 – 展覧会の宣伝のため、広告を体中に巻き、ミイラのような状態で銀座の路上を歩く(これにマスコミは食いついたらしい。写真が残っている)
  • 石橋清治 – 早稲田通りに放置してタイヤ跡をつけたケント紙を展示し、その前で座禅を組む
  • 赤瀬川原平 – 割れたコップを石膏のパネルに規則正しく張り付けた作品
  • 画廊内での騒音を録音したものを画廊の窓から街頭に向けて流していたらしい(「メンバーは金ダライをぶっ叩き、椅子を破壊し、絶叫しては騒音をまき散らしていた」という記述が日本美術作家史情報にあるので、その音かもしれない)

などであったらしい。

6月 安保記念イベント

当時、国会議事堂の周辺では日米安全保障条約の改定に反対する「60年安保闘争」が繰り広げられていたらしい。ネオ・ダダもそのデモに参加して、「安保反対」ではなく「アンフォ反対」と叫んでいたらしい。アンフォとはアンフォルメルという抽象画のムーブメントのことを指すらしい。しかし、アンフォルメルにはアクションペインティングも含まれるらしく、ギューチャン自体がボクシング・ペインティングのパフォーマーなので、「反対」とはこれいかに。
政治や芸術の主張があったのではなく、ただギャグセンスだけがあったのではなかろうか。

第二回ネオ・ダダ展

同年7月、過激なパフォーマンスが災いして画廊が借りられなかったらしく、新宿ホワイトハウスにて第二回ネオ・ダダ展を開催。内容は

  • ギューチャン – 木の根っこのやつ(詳細不明)
  • 吉野辰海 – マグネシウム花火のパフォーマンス

などがあったらしい。第二回展については、資料をあまり見つけられなかった。

ビーチ・ショー

同年9月TBSテレビの取材に応じて、鎌倉の材木座海岸でパフォーマンスを行う。内容は

  • 白い布を広げ、トマトを投げつける
  • 風倉匠を海草で簀巻きにし、海に叩き込んで引き上げる(参照:Art Annual online

などであったらしい。

第三回ネオ・ダダ展

同年9月、日比谷画廊にて第三回ネオ・ダダ展を開催。内容は

  • 升沢金平 – 布団に電球の破片をおいて小便をかけた作品。タイトルは「帝国ホテル」。時々その布団に向かって立小便をしていたらしい

なんか他にもたくさんあったらしいが、書くのが面倒になったし、どの作品がどの展示なのかはっきりしない。NewYorkArt.comを見てください。

というか、下記のギューチャン自身の述懐を見てください。

この頃になると初期のマニフェストにあった立派な芸術主張はお題目も同然で、次から次と押寄せるマスコミの持参するウイスキーをがぶ飲みしながら、奇ばつなアクション・ショーを片っぱしから演じて行くだけ

NewYorkeArt.com

これがすべてでしょー。作品にかけた小便が臭すぎて、一週間の会期だったはずが3日で陳列を拒否され、画廊を閉鎖された。

新宿ホワイトハウス開放を停止

新宿ホワイトハウスはネオ・ダダたちのサロン(溜まり場)であり、一時は展覧会の場にもなったのだが、1960年10月に吉村は結婚をし、新宿ホワイトハウスの開放を停止した。そして、溜まり場を失ったネオ・ダダは「蒸発」する。

1962年に吉村はホワイトハウスを売却し、渡米した。ホワイトハウスには、次の住人が現れる。

続く・・・

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新宿ホワイトハウスをめぐる冒険

新宿ホワイトハウス建築以前

赤瀬川原平誕生

1937年3月27日、赤瀬川原平は横浜に生まれた。父親の転勤により、一家は原平が4歳のころ大分県大分市に引越す。

原平が小学生か中学生のころ、雪野恭弘(のちの画家)と知り合う(双方のwikipediaには小学生時代、と書かれているが、ほぼ日のインタビューでは原平本人は「中学から」と発言している)。

原平の兄、赤瀬川隼彦(のちの直木賞作家)は磯崎新(のちの建築家)の旧制中学で同級生であり、隼彦と磯崎は下校時に必ずどちらかの家に遊びに行くくらい仲が良かったらしい(参考:日本美術作家史情報)。

ネオダダ前夜、新世紀群

磯崎は高校時代、大分市の画材店「キムラヤ」にて、吉村益信(のちの美術家)らとデッサン会(絵画サークル)をやっていた。そして東京大学に進学し、大分を離れるのだが、そのサークルに原平と雪野が出入りするようになる。

吉村は磯崎に「若いので見込みのある奴が2,3人来はじめた」と伝えた。その一人が原平であった。磯崎は原平が隼彦の弟だと思い当たる。

そのころ磯崎は大分には夏休み帰ってくるくらいの頻度でしか帰郷していなかったものの、そのサークルに東京の新しい芸術の動きを伝え、サークルに「新世紀群」という名前をつけた(参考:TOTO通信日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイブ)。新世紀群には、風倉匠(のちの美術家)も参加している。

このようにして、赤瀬川原平、吉村益信、磯崎新は出会った。

1951年に吉村は武蔵野美術大学に進学し上京、1952年赤瀬川一家は名古屋に引っ越し、一時彼らは離れ離れになる。原平は愛知県立旭丘高等学校に転校し、ここで荒川修作(のちの美術家)に出会う。

吉村の勧めで、原平と雪野は1955年に武蔵野美術大学に入学した。ここで原平、吉村、磯崎は再開する。

ちなみに吉村は同大学を卒業したが、原平と雪野は中退した。

新宿ホワイトハウス建築

1957年、吉村は父親の遺産を元に新宿百人町に土地を購入。吉村は住居兼アトリエの設計を磯崎に依頼。磯崎は原案を描いて渡し、細部までは見なかったとのことだが、その原案をもとに吉村が大工とともに自力で建設したらしい。建物は、白い外観から「ホワイトハウス」と呼ばれた。このようにして、新宿ホワイトハウスは建築された。

続く・・・

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七尾旅人と志人の共通した二つのモチーフ

父ちゃんとじいちゃん

七尾旅人の「ぼくらのひかり」という歌があります。音源としては2016年発売の「兵士A」というDVD作品に収録されています。ライブでこの歌が披露されたのはもっと前で、2012年~13年くらいだったかと思います(この時期について、はっきりとした確証はありません)。核で焼かれた国、その国が原子力で発電すること、原発で働いた「父ちゃん」、2011年にその村を津波が襲ったことが描かれた歌です。

歌の中で「父ちゃん」は、1950年に炭鉱夫をしています。しかし石油の影響で炭鉱の村は廃れていきます。「父ちゃん」は不吉な咳をしていますが、この頃家族には共通の夢がありました。

この村で 家族いっしょのまま 幸せになるんだと

ぼくらのひかり

1960年、行き詰ったその村に原子力発電所ができます。「父ちゃん」はそこで働きます。1964年の東京オリンピック、1970年の大阪万博を経て、歌の主人公は「希望」を感じます。

この小さな村の 小さなひかりが

日本中を照らし 世界の未来を照らす 大きなひかりに

ぼくらのひかり

歌が1982年に進むと、主人公には子供ができています。この時点で主人公はまだ希望を持っています。

日本はどこまで登ってゆくだろうか

ぼくらのひかり

1989年になると主人公は「父ちゃん」を「父ちゃん」ではなく「親父」と呼ぶようになっています。このとき、東京の地価が5倍になったと聞くのに、主人公の村にはそれは無縁のことで、そのことに主人公は違和感を感じます。主人公の希望に影が差していきます。

1991年に「親父」は死に、主人公の子供たちは村を離れていきます。家族が離れていき、主人公は自分の価値観に疑問を持ちます。

ぼくたちのひかりは にせの ひかりか

ぼくらのひかり

その村を2011年、津波が襲い、歌は終わります。

私はこの歌を聞いて、「父ちゃん」世代の価値観・世界観が崩れていくのを主人公が描写しているように感じました。

一方、じいちゃん

志人は2016年「杣道」(読み:そまどう)という曲をリリースしました。この曲は「木こり」である歌の主人公が、山で木を切ること、家族と生きていくこと、自分の中の火を燃やし続けることを14分ラップしたおす、という壮絶な歌です。

ラップの中に「じいちゃん」が何度か出てきます。

肌身離さずに携えた叩きの鉈はじいちゃんの形見

杣道

枝この隅まで炭にしたろうか

じいちゃんがわしの心の中で歳を取らずいつまでも生きているようにさ

杣道

ラップの人称は常に歌の主人公の目線なのですが、文体は2つに分かれています。

一つは、一人称が「わし」で、語尾が方言になる文体。
「~じゃ」「~ってもんよ」

もう一つは、方言なしの現代語の文体です。
「何年経ってもお前は成長しねーな」

文体が二つあることで、「わし」を名乗るほうのラップが、歌の主人公の哲学なのか、心の中で生きている「じいちゃん」の価値観・世界観がそれを言わせているのか、いろいろなふうに受け取れます。

私は、曲を聞いていて「じいちゃん」の価値観を受け継いだ主人公が、強靭に前向きに進んでいく印象を受けました。

「ぼくらのひかり」の父ちゃんと、「杣道」のじいちゃんは同じ世代

「ぼくらのひかり」の父ちゃんは、詩に西暦が指定されているので、どの年代の人なのか明らかです。「杣道」のじいちゃんは「何年経ってもお前は成長しねーな」という現代語を使う世代の「じいちゃん」にあたるわけですから、「父ちゃん」と「じいちゃん」が同じ世代であることがわかります。

七尾旅人はその価値観が崩れていくさまを描き、志人はその価値観を受け継いで前向きにとらえています。

二人の偉大な歌手が、同じ時期に同じモチーフを選び、全く違う表現をしており、そのどちらも最高です。同時期、二人はもう一つ同じモチーフで作品を作っているのですが、今度書きます。

志人の杣道について

杣道は限定発売で、現在入手不可です。私は当然ゲットし、愛聴しているからいいのですが、これだけの内容の作品、ヘッズたちが飢えておりますので、Temple ATS様、再発売してあげてくださいー。

杣道

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