新宿ホワイトハウスをめぐる冒険

新宿ホワイトハウス建築以前

赤瀬川原平誕生

1937年3月27日、赤瀬川原平は横浜に生まれた。父親の転勤により、一家は原平が4歳のころ大分県大分市に引越す。

原平が小学生か中学生のころ、雪野恭弘(のちの画家)と知り合う(双方のwikipediaには小学生時代、と書かれているが、ほぼ日のインタビューでは原平本人は「中学から」と発言している)。

原平の兄、赤瀬川隼彦(のちの直木賞作家)は磯崎新(のちの建築家)の旧制中学で同級生であり、隼彦と磯崎は下校時に必ずどちらかの家に遊びに行くくらい仲が良かったらしい(参考:日本美術作家史情報)。

ネオダダ前夜、新世紀群

磯崎は高校時代、大分市の画材店「キムラヤ」にて、吉村益信(のちの美術家)らとデッサン会(絵画サークル)をやっていた。そして東京大学に進学し、大分を離れるのだが、そのサークルに原平と雪野が出入りするようになる。

吉村は磯崎に「若いので見込みのある奴が2,3人来はじめた」と伝えた。その一人が原平であった。磯崎は原平が隼彦の弟だと思い当たる。

そのころ磯崎は大分には夏休み帰ってくるくらいの頻度でしか帰郷していなかったものの、そのサークルに東京の新しい芸術の動きを伝え、サークルに「新世紀群」という名前をつけた(参考:TOTO通信日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイブ)。新世紀群には、風倉匠(のちの美術家)も参加している。

このようにして、赤瀬川原平、吉村益信、磯崎新は出会った。

1951年に吉村は武蔵野美術大学に進学し上京、1952年赤瀬川一家は名古屋に引っ越し、一時彼らは離れ離れになる。原平は愛知県立旭丘高等学校に転校し、ここで荒川修作(のちの美術家)に出会う。

吉村の勧めで、原平と雪野は1955年に武蔵野美術大学に入学した。ここで原平、吉村、磯崎は再開する。

ちなみに吉村は同大学を卒業したが、原平と雪野は中退した。

新宿ホワイトハウス建築

1957年、吉村は父親の遺産を元に新宿百人町に土地を購入。吉村は住居兼アトリエの設計を磯崎に依頼。磯崎は原案を描いて渡し、細部までは見なかったとのことだが、その原案をもとに吉村が大工とともに自力で建設したらしい。建物は、白い外観から「ホワイトハウス」と呼ばれた。このようにして、新宿ホワイトハウスは建築された。

続く・・・

新宿ホワイトハウスをめぐる冒険(2)はこちら