新宿ホワイトハウスをめぐる冒険(2)

ネオ・ダダ結成

1959年、持病の手術のため名古屋に戻っていた原平のもとに、吉村から手紙が届く。手紙には前衛芸術の新しいグループを組織するとしたためられていた。

吉村に賛同した原平は1960年1月、荒川修作を誘ってグループに参加した。その後ギューチャンが加入。彼らは新宿ホワイトハウスに溜まり、グループの名前は「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」になった。

メンバー加入のいきさつ、ギューチャンのモヒカンにいかにマスコミが食いついたか、吉村になぜ土地が買えるほどの遺産があったのかなどについては、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴによるギューチャンのインタビューに詳しい。

また、当時のネオダダの様子はこちらのサイトで漫画にされている(制作は大分市教育委員会となっている)。

第一回ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ展

ネオダダは同年4月、銀座画廊で第一回ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ展を開催した。展覧会の内容は

  • ギューチャン – 風船300個
  • 上田純 – 豆腐の上でもやしを栽培
  • 吉村益信 – 展覧会の宣伝のため、広告を体中に巻き、ミイラのような状態で銀座の路上を歩く(これにマスコミは食いついたらしい。写真が残っている)
  • 石橋清治 – 早稲田通りに放置してタイヤ跡をつけたケント紙を展示し、その前で座禅を組む
  • 赤瀬川原平 – 割れたコップを石膏のパネルに規則正しく張り付けた作品
  • 画廊内での騒音を録音したものを画廊の窓から街頭に向けて流していたらしい(「メンバーは金ダライをぶっ叩き、椅子を破壊し、絶叫しては騒音をまき散らしていた」という記述が日本美術作家史情報にあるので、その音かもしれない)

などであったらしい。

6月 安保記念イベント

当時、国会議事堂の周辺では日米安全保障条約の改定に反対する「60年安保闘争」が繰り広げられていたらしい。ネオ・ダダもそのデモに参加して、「安保反対」ではなく「アンフォ反対」と叫んでいたらしい。アンフォとはアンフォルメルという抽象画のムーブメントのことを指すらしい。しかし、アンフォルメルにはアクションペインティングも含まれるらしく、ギューチャン自体がボクシング・ペインティングのパフォーマーなので、「反対」とはこれいかに。
政治や芸術の主張があったのではなく、ただギャグセンスだけがあったのではなかろうか。

第二回ネオ・ダダ展

同年7月、過激なパフォーマンスが災いして画廊が借りられなかったらしく、新宿ホワイトハウスにて第二回ネオ・ダダ展を開催。内容は

  • ギューチャン – 木の根っこのやつ(詳細不明)
  • 吉野辰海 – マグネシウム花火のパフォーマンス

などがあったらしい。第二回展については、資料をあまり見つけられなかった。

ビーチ・ショー

同年9月TBSテレビの取材に応じて、鎌倉の材木座海岸でパフォーマンスを行う。内容は

  • 白い布を広げ、トマトを投げつける
  • 風倉匠を海草で簀巻きにし、海に叩き込んで引き上げる(参照:Art Annual online

などであったらしい。

第三回ネオ・ダダ展

同年9月、日比谷画廊にて第三回ネオ・ダダ展を開催。内容は

  • 升沢金平 – 布団に電球の破片をおいて小便をかけた作品。タイトルは「帝国ホテル」。時々その布団に向かって立小便をしていたらしい

なんか他にもたくさんあったらしいが、書くのが面倒になったし、どの作品がどの展示なのかはっきりしない。NewYorkArt.comを見てください。

というか、下記のギューチャン自身の述懐を見てください。

この頃になると初期のマニフェストにあった立派な芸術主張はお題目も同然で、次から次と押寄せるマスコミの持参するウイスキーをがぶ飲みしながら、奇ばつなアクション・ショーを片っぱしから演じて行くだけ

NewYorkeArt.com

これがすべてでしょー。作品にかけた小便が臭すぎて、一週間の会期だったはずが3日で陳列を拒否され、画廊を閉鎖された。

新宿ホワイトハウス開放を停止

新宿ホワイトハウスはネオ・ダダたちのサロン(溜まり場)であり、一時は展覧会の場にもなったのだが、1960年10月に吉村は結婚をし、新宿ホワイトハウスの開放を停止した。そして、溜まり場を失ったネオ・ダダは「蒸発」する。

1962年に吉村はホワイトハウスを売却し、渡米した。ホワイトハウスには、次の住人が現れる。

続く・・・

新宿ホワイトハウスをめぐる冒険(3)はこちら

新宿ホワイトハウスをめぐる冒険(1)はこちら