会田誠は一般家庭でコロッケが調理されることに疑問を持っている。
コロッケ、僕も家で食いたいと思わない。炭水化物のじゃがいも、オカズ力ないし。油すぐ傷むし、少量油でやると「それなり」になっちゃうし、揚げ物自体が少人数家族には向いてない。商店街のコロッケやメンチ買って歩き食いが一番。
会田誠のtwitter 2018.06.14
僕は外でステーキを食う人の気がしれない(外国滞在中は除く)のと同時に、家でコロッケや餃子を作る人の気もしれない(大家族は除く)。自分で作って自分で食う/家族に食べさせるといったことに特段の喜びを感じず、ただ淡々と家事労働と食費のコスパを計算すればそうなる。
会田誠のtwitter 2020.01.22
2018年の記述と2020年の記述、どちらにも「少人数家庭には向いていない」「大家族は除く」という注釈があることに注目したい。「買って歩き食いが一番」と書いていることから、食べ物として味を否定しているわけではないことがわかる。会田誠が提示しているのは、
4~5人家族で一度にコロッケを作る量は多くても20個くらいであろう、そのために1時間くらいかけて、タネをゆでたり炒めたりする→形を形成する→小麦粉、溶き卵、パン粉をまぶす→揚げる、それだけ手間暇かけて作ったものが果たして肉屋のコロッケより安く・おいしいのだろうか?
という疑問だと思う。
「お母さんが作ったコロッケはおいしい」という存在しない幻想によって、多くの人が不幸になっているのではないだろうか。
一方で、平野レミもコロッケに疑問を持っている。
レミは「コロッケ作って」と幼いころの息子さんにリクエストされた。しかしレミはそれが面倒くさかった。しかしレミには出来合いのものを家族に食べさせたくないという思想があった。
あれは(出来合いの食べ物は)、よそのおじさんやおばさんが作った味で、その人のベロの味でしょう。あたしのベロの味じゃない。そんな味を直行で夫や息子のところに入らせたくないよ、あたしは!
インタビュー2012.01.02公開
そこでレミが編み出したレシピが「食べればコロッケ」である。詳しい内容は検索すれば出てくるだろうからここには書かないが、大まかにいうと、A.ジャガイモをレンジでチンしてバターとマッシュする→B.玉ねぎとひき肉を炒める→AにBを乗せる→砕いたコーンフレークを上から散らす、というレシピである。揚げ物のフェイクとしてコーンフレークをまぶすという驚くべき方法がとられている。
研究のためブログ筆者も作ってみたが、おいしかった。コーンフレークの食感はこのレシピに不可欠であるように思う。
一般家庭でコロッケを作るという行為は正しいものなのか、という同じ疑問から、会田誠は「専門の作家から買ってくる」というリアリズム的解決策を提示している。平野レミは「形作らない」という脱構築+揚げ物のフェイクとしてコーンフレーク、というファンタジスタ的解決策を導き出している。
同じ疑問から出発して、これほどの振り幅がある解決策が提示されたことに感じ入りつつ、根本的なことに疑問を呈する芸術家たちに畏敬の念が沸く。
コロッケという料理はいつ日本に誕生したものなのか。wikipediaによると、明治時代にフランス料理・イギリス料理の一つとして輸入されたものらしい。近代以降輸入され、無批判に継続されているものに疑問を持つ、図らずもそれは会田誠の重要なテーマの一つではないだろうか。
僕の用語法では「芸術」とは「ヨーロッパ近代が掲げた理想的価値」とほぼ同義。それを疑ったり否定したりすることには、下克上的な、ちゃぶ台返し的な爽快感がある。しかしそう簡単に否定できるほどヤワな相手か、とも思う。この二重生活を30年。
会田誠のtwitter 2020.05.05