その映像にもう一度こだわってみよう

その映像、通称 -老人の呪いのビデオ- にもう一度こだわってみよう。
その映像のずれは、その他のずれと呼応しているはずだから。


問題点は、緊急時にその老人がくつろいでいる姿が不快である、ということではないと思う。こんなときは努力している姿をアピールすべき、という意見も頷きかねる。


問題点は、カメラ目線で歌う青年の映像の右側に、アイドル(若しくはポルノ女優)のように映された老人の映像が取り付けられた、映像自体の異様さと、それを公開すべきと判断した者の感性・自己批判の欠如にあると思う。


まず一つ目のシーン、ここでは老人が犬を抱いている姿が映っている。これはまだ見れる。犬は美しいからだ。老人と犬という組み合わせも悪くない。なぜカメラ目線で歌う青年の映像の右側にその映像をくっつけるのか、という根本的な疑問はあるが、見れるか見れないかでいうと、見れる。


問題は二つ目のシーンだ。ここでは足を組んだ老人が紅茶をすすっている姿が映っている。これがきつい。こんなものを誰が見たいと思うのだろうか。


その映像、通称 -老人の呪いのビデオ- は印象操作のために撮影されたのではないか、と感じる人がいるらしい。曰く、その老人が「ポップである」「大衆文化に溶け込めるお茶目さがある」という印象操作を狙ったのではないか、と。
しかし、この二つ目のシーンを見てどうだろう。そのような印象を持つものがいるのだろうか。


ここで撮影者の気持ちになってみよう。


テーマは印象操作で、その老人は紅茶をすする。
その老人の組織に所属する別の老人が、その老人に向かってカメラを向ける。
その老人は二口紅茶をすすり、宙を眺め、もう一口すする。時間にして約15秒。
無理だ。15秒撮影を続けることなんて、できるわけがない。


撮影者である老人が、その老人が紅茶をすする15秒の間、何の疑問も持たずにカメラを回し続けられるわけがない。撮影したとしても、編集の段階で切らざるをえない。だって、端的に醜いのだから。
この撮影は、その老人になんらかの好意を持っている人物によってされたのではないだろうか。


具体的には、その正体は、その老人の配偶者ではないだろうか。


「紅茶をすする素敵なあなたの映像を見れば、視聴者は穏やかな気分になるのではないだろうか、私がそうであるように」
そんな視線を、カメラをその老人に向けたものの視線を、その映像は感じさせる。


その映像、通称 -老人の呪いのビデオ- は、組織による印象操作ではなく、ひょっとして配偶者の、その配偶者からすれば「善意」で企画・撮影・編集されたのではないだろうか。


その善意は、他者からすると狂気だったのではないだろうか。


もしそうなら、あの艶めかしさ(その老人が艶めかしいわけでは、もちろんない。その老人の何気ない日常を56秒眺める視点が艶めかしいのだ)、映像の異様さに合点がいく。


誰かの好意が誰かを傷つけることなんてあるのだろうか。


あるはずだ。それは、彼が、彼女がこの7年の間に見たニュースに、とても似ている。